鹿児島県は、いちき串木野市の羽島港の薩長藩英国留学生の碑です。
1862年の生麦事件に端を発した薩英戦争で大きな被害を受けた薩摩藩は、
近代技術を学び、西洋技術を導入するため、1865年五代友厚や森有礼ら
薩摩藩留学生19名をここ羽島浜中港より英国へ送り出した。
当時は、諸藩が容易に外国に行くことができなかったため、留学生達は
幕府役人の警戒を逃れるため改名し、近海の島の視察と称し
串木野の羽島に2ヶ月間潜伏した後、英国に向けここ羽島浜中。
港より英国船オースタライエン号で密かに出航したのである。
彼らは英国のサザンプトン港を経由し、ロンドンに到着するとロンドン大学で
近代技術を学び、後の近代日本の発展に多大な貢献を果たすこととなった。
また、本漁港は西郷隆盛が青年時代に万福池補修工事費の残金をもって、
藩命により修復した史実もある由緒ある玉石積みの防波堤をつ港でもある。
こう記されている 歴史的場所を隣の川内市(今は薩摩川内市)で生まれ育ったのに
大人になるまで、全く知らなかった。小中学生の頃に もう少し、
地元の歴史というものを深く教えてもらえていたらなと最近感じます。
祖先の墓地がある「泰平寺」が九州征伐の時の豊臣秀吉の本陣であった
と知ったのも恥ずかしいことに最近です。創建が和同元年(708年)、
ここで秀吉が島津義久と会見し、島津氏の降伏の舞台となったお寺です。
そんなに由緒あるお寺なんて、全く知らずに隣の公園で遊んでいました。
世の中にこの歴史があまり知られていないのは
負け戦の話なので、鹿児島人は語りたがらなかったのでは、との説が
日本人の気質を現わしているそんな気がします。
0 件のコメント:
コメントを投稿